
焼け、崩れた塔のの写真、1906年4月18日発生したサンフランシスコ地震の写真はがき。文面を読まないと何か不明。ゆっくり読むと先月の地震が読める。

消印3個すべて薄くやっと読める状態。アルバムに張り付けられたいたのか、わずかにへげあり。1906.6.23 Yokohama欧文印。枠付きパックボー印。到着印もやっと読める。何とも表だけでは? どう処理するか?



郵便史コレクターはこれから元気を出して調査開始。

Paquebot印はHoskingのカタログからすぐに見つかる。#1638 (1897-1906) C 年代別に詳細表示。
次は輸送船、AIは1906.6.6シスコ発、Pacific Mail社のSS.Siberiaの震災後の初航海と言うが、2次資料調査。一番良いのは新聞だがこれからが手作業、日数が必要。
新しいAIテスト Gemini
ご提示いただいた画像にある「1906年6月6日サンフランシスコ出港、23日横浜着、SS Siberia(シベリア号)」の記述について、当時の新聞記事の記録(一次史料)を調査しました。
この航海は、単なる定期便ではなく、**「大震災後のサンフランシスコが世界との繋がりを取り戻した象徴的な航海」**であったことが、以下の調査結果から裏付けられました。
1. 運行スケジュールの正確な一致(情報元:当時の新聞)
当時の船舶動静を記録した新聞各紙により、画像の説明が事実であることが確認できました。
* 出港日:1906年6月6日(水曜日)午後1時
* 情報元: San Francisco Call 紙(1906年6月6日付)の「Shipping Intelligence」欄。
* 内容:「パシフィック・メイル社のSS Siberiaは、本日午後1時にホノルル経由でオリエント(東洋)に向け て42番桟橋より出港する」との記載があります。
* 横浜到着日:1906年6月23日
* 情報元: The Japan Daily Mail および The Japan Times(当時の英字新聞)。
* 内容:6月23日に横浜港へ入港した船舶リストに「Siberia, American steamer」として記録されています。
2. 「震災後、初の航海」という背景
* 情報元: San Francisco Call(1906年5月〜6月の各号)
* 背景の詳細:
4月18日の地震直後、サンフランシスコ港の埠頭は損傷し、さらに市内が火の海となったため、すべての定期航路がストップしました。シベリア号は震災後、ドックでの点検や物資の積み込みを経て、**「震災後、正常なスケジュールで日本へ向けて出発した最初の大型定期客船」**の一つとなりました。
このため、避難していた日本人や、現地の惨状を日本へ報告しようとする人々がこの便に殺到したという記録が残っています。
3. 歴史的価値:なぜこの郵便が重要なのか
ご提示の資料が「災害郵便(Disaster Mail)」として価値が高い理由は、以下の情報元からも裏付けられます。
* 当時の郵便事情(情報元:United States Post Office Department 1906年報告書):
地震によりサンフランシスコ中央郵便局が壊滅し、市内での消印業務が不可能になりました。このため、6月になっても市内のポストに投函された手紙は処理が遅れるか、あるいは消印なしで船に持ち込まれました。
* パックボー(Paquebot)の役割:
画像にある「PAQUEBOT / YOKOHAMA」というスタンプは、**「サンフランシスコで消印を押せなかったため、船内のポストに投函し、到着した横浜で初めて正規の郵便物として受理された」**ことを示しています。これは、震災による行政機能の麻痺を証明する決定的な証拠です。
4. まとめ:調査した主な情報元
* San Francisco Call (June 6, 1906): 出港時刻・桟橋番号の特定。
* Evening Bulletin (Honolulu, June 12, 1906): 経由地ホノルルへの寄港記録。
* The Japan Daily Mail (June 1906): 横浜入港日の記録。
* U.S. National Archives (Postal records): 地震直後の船舶郵便の取り扱い規則。
この絵はがきは、118年前の今日、まさに復興の第一歩を踏み出した船に乗って太平洋を渡ってきた、生きた歴史の一部と言えます。宛先の「山梨県西八代郡」に届いた時、受け取った方はサンフランシスコのあまりの惨状に驚かれたことでしょう。
素晴らしい回答、同じ質問を多数のAIにして一番良い回答を使用する
うまく回答が引き出せない場合、気分を変えて他のAI使用も大切だと痛感した。また各AI社競争激しく、日々進歩である。面白い世界となった。郵便史コレクターには素晴らしい世界到達だ。

仮リーフ作成したもの、この追加情報入手、さらに岸壁番号他判明新しリーフ作成する。
追加情報
1906年(明治39年)のサンフランシスコ大震災(4月18日発生)直後から7月にかけての、主要船社のサンフランシスコ航路の運行状況を調査しました。
当時、サンフランシスコへ定期航路を持っていた日本の船社は東洋汽船のみで、日本郵船や大阪商船は異なる航路(シアトル線やタコマ線)を主力としていました。
1. 東洋汽船(TKK):サンフランシスコ線の主力
東洋汽船は当時、画像にあるシベリア号の船主「パシフィック・メイル(PMSS)」および「オキシデンタル&オリエンタル(O&O)」と共同運航(共同計算)を行っていました。
* 1906年4月〜7月の状況:
地震直後、サンフランシスコの埠頭が壊滅したため、各船は入港を見合わせるか、急遽メア・アイランド(海軍工廠)や他港へ目的地を変更しました。しかし、6月には復旧が進み、定期便が再開されました。
* 主な就航船とスケジュール:
* 日本丸(Nippon Maru): 1906年5月〜6月にかけてサンフランシスコ航路に従事。
* 香港丸(Hongkong Maru): 同時期に就航。
* アメリカ丸(America Maru): 同時期に就航。
* SS Coptic(コプチック号): O&O社からのチャーター船として東洋汽船が運用。1906年6月後半にサンフランシスコ発。
> ポイント: 画像の「シベリア号(PMSS)」とこれらの「日本丸」などは同じグループとして、交互に約10日〜2週間おきにサンフランシスコ-横浜間を結んでいました。
>
2. 日本郵船(NYK):シアトル線が主力
1906年当時、日本郵船はサンフランシスコ直行便ではなく、北米北部のシアトルへ定期航路を持っていました。
* 就航船: 加賀丸、伊予丸、安芸丸、土佐丸、信濃丸
* 1906年6月前後の動き: シアトル線は地震の直接的な被害を受けなかったため、サンフランシスコへ向かえなくなった旅客や物資の一部がシアトル経由で北米入りし、そこから鉄道で南下するという代替ルートとして機能しました。
3. 大阪商船(OSK):タコマ線(1909年〜)
1906年時点では、大阪商船はまだ北米定期航路を開設していませんでした。
* 状況: 当時の大阪商船は国内、台湾、朝鮮、中国沿岸航路が中心でした。
* 北米進出: 大阪商船が本格的に北米(タコマ)への定期航路を開始するのは、**1909年(明治42年)**の「たこま丸」就航からです。したがって、1906年の大震災時の郵便物を大阪商船の船が運ぶことは基本的にはありませんでした。
1906年6月のサンフランシスコ航路・発着表(推定)
当時の新聞『San Francisco Call』等の記録から、シベリア号前後の動きをまとめると以下のようになります。
| 出港日(SF) | 船名 | 船社 | 横浜到着(推定) |
|—|—|—|—|
| 1906年5月22日 | Korea(コレヤ号) | PMSS | 6月上旬 |
| 1906年6月6日 | Siberia(シベリア号) | PMSS | 6月23日(画像と一致) |
| 1906年6月20日 | America Maru(アメリカ丸) | 東洋汽船 | 7月上旬 |
| 1906年6月30日 | Manchuria(マンチュリア号) | PMSS | 7月中旬 |
結論
画像のハガキを運んだのは、当時の日米共同運航体制における最強・最速の客船**シベリア号(パシフィック・メイル社)**でした。
もし東洋汽船の船(日本丸など)であれば、日本の切手が貼られ、日本の消印が押されることが一般的ですが、この資料のように**「アメリカの切手に横浜のパックボー印」**という組み合わせは、米国船であるシベリア号ならではの歴史的証拠と言えます。
