JAPEX2025作品完成、内部再チェックする

SHIP COVER

いつもながらTopリーフ作成に苦労する。

今回は広島出品32リーフに追加16リーフのPaquebotカバー中国Paquebotのみならシンプルだったが、少し古い手持ち入れたので、迷い道に入る。最終的に1886年上海ship印からの16リーフ創成期と言うことで1フレーム確保である。書き込みの間違いはなかなか判明しないので、1リーフづつ詳細に再点検である。写真もコピーから入力すると解明度不良で、i-phoneの写真に変更。

今回は初の3フレーム、前進ありで黙々と作成である。最初にストーリーの展開を決めて後は丁寧に作品作成である。

1886年制度開始前の長崎で押されたSHIP印 1898年長崎 1902年仁川

昔ドイツ業者より購入。詳細に内容調査。SHIP上海船中集とあるので、上海で押した印かと思っていたが解説書をよく読むと長崎到着時押し印したものらしい。小型欧文印4桁長崎と神戸が良い。官報告示で船名東京丸と確定出来た。単語間違い発見修正第一号。先は長い。

1898年長崎最初のPAQUEBOT印はがき2通。いずれも裏面に送付船名記入あり。初期のPAQUEBOT印長崎、神戸、横濱サイズ同じらしいが、残念ながら神戸がなし。

苦労してデーター収集。AIは大阪商船金剛丸と言うが、他のAIでは確認できず。継続調査である。差出人韓国仁川局外国人用私書箱らしい。 仁川で切手に消印せず、船函のみ押し船積み。釜山日本局で消印。宛先の山口県大島郡に配達。丸一型到着印、読めないが地図を調べ大島郡の消印から周防平野と判明。到着日付けが読めないのが残念。明治35年もよく読めないが、戦前の江口カタログに1902年の印があるので三か五で迷うが五で確定。まだ追加調査の必要な封筒である。仁川8.16差出、大阪商船、隅田川丸確定。

次の4リーフ 日本海航路 長崎・敦賀・小樽

1901-03年年浦潮投函、長崎PAQUEBOT。浦潮・長崎間定期船かと調査。しかしロシア義郵艦隊客船はオデッサからスエズ経由の船が途中長崎に寄港のみ。まだシベリア鉄道開通前、浦潮から欧州へはこの客船しかない時代。香港の新聞でデーター調査する暇なし。1904-05年の日露戦争でこの客船は全滅。浦潮・敦賀のはがきと同じ様だが、歴史的にはこちらがすばらしい。浦潮では日本人会が郵便を取りまとめ、ロシア船に積み込み依頼した様だ。

1904年日本郵船Wilson号、官報告示では外国船。日露戦争のため日本船はほとんど徴用。下の1905年文面から神戸から長崎向け船上投函は判明だが、長崎上海航路か? 他の航路か調査必要。

敦賀PAQUEBOT、日本切手貼りは珍しいらしい。浦潮居留民の手紙は日本人会でまとめてロシア郵便料金で本船に届けられた。このはがきは旅行者があらかじめ準備した日本切手貼り、日本人居留會経由、鳳山丸積み込みこまれた。日本船なので日本切手貼り、公海上で受付問題なし。敦賀で陸揚げ、敦賀局は欧文印でなく櫛型印で消印それでもしっかりPAQUEBOT印は押されている。官報告示で調査すると、鉄道で神戸に輸送。台湾航路の台中丸に積み込み基隆経由台湾・鳳山に配達されている。PAQUEBOT印かすれで汚れているが、日付的にも9月2日合格である。2隻の船名、送付日付判明なかなかお気に入りのはがきです。大阪商船鳳山丸7月下旬就航。

1909年小樽のPAQUEBOT印、少ないと思う。あれこれ調査、手紙にも書かれている交通丸で輸送船も確定。16リーフにどこに入れるか苦労したが、初期のPAQUEBOT印でごまかした感じ。流れるような漢字が素晴らしい。交通丸と読めるのも良いが前の部分が意味不明が残念。

次の4リーフ 横濱・敦賀

横濱PAQUEBOT印、シアトル航路の信濃丸はがきの状態は良くないが初期の印。信濃丸も日露戦争後のシアトル航路。下はサンフランシスコ航路のSS. Korea絵はがきのみで船名確定。PMSCの客船。その後東洋汽船が購入コオリア丸。横濱陸揚げ後フランス向け、シベリア鉄道開通だが、アメリカ経由か? 不明である。Via Siberia表示あれば問題なく早期到着のシベリア経由だが、太平洋東航船すぐにあれば東周りだが詳細不明。到着印が欲しい。

横濱の初期PAQUEBOT印、長崎とほぼ同じサイズ。上は1908年サンフランシスコ航路の東洋汽船から投函、米国ニューヨーク宛て。最短のシアトル航路船に積まれ10日航海、その後約1週間でニューヨーク着である。横濱の消印が潰れているのが残念。下は1909年ホノルル大阪商船関係者(居留民)より香港大阪商船社員への年賀状。官報告示で日本郵船丹後丸にて輸送。横濱で12月28日中継印。そのまま積まれて香港1月8日着。

大阪商船・鳳山丸にて輸送。敦賀PAQUEBOT印、1907年日露戦争後の新造船鳳山丸7月下旬就航、3航海目。ロシアはがきだか2通とも鳳山丸にて輸送、官報告示で確認。シベリア鉄道接続。欧州向け郵便のメインルートである。このはがきは逆に浦潮居留民の利用便。

この2通も鳳山丸投函。日本人旅行者が旅行の様子を英文で書いて投函が珍しい。検閲を通過するため書かれたか? 全体に消印が濃い過ぎて汚い感じ。まあ古色が出ていると言えばよいか。いずれも居留會経由本船持ち込みはがきと思われる。Paquebpt印は枠付き、初期の少し小型とこ少し大きめの2種類のみ。

中国沿岸航路のPAQUEBOT 漢口・沙市・上海 1915年頃

上海の日本局(IJPO)のPAQUEBOT印。揚子江航路南陽丸から投函。日清戦争後、清国の港湾に外国勢力の進出か゜強まる。日本も揚子江航路に進出。英文ではNANG YANG MARUの表示。

ずいぶん昔入手、漢口のPAQUEBOT印。最近Yahooで争って入手した右のはがきと並べて何とか役立つ。英文PAQUEBOT印と漢字表示船中投函郵便うまく対比できる。揚子江大河である。約5000マイル各国の多数の客船が航海をしている。ななかなか入手不可のこのはがき入手はラッキーである。

最近、集中してYahooオークションチェック。船名を文面から読み取れる、ナイスはがき見つけて入札金額こだわらす入手。あまり争わずすんなり落札ラッキーである。データー目いっぱい調査、書き込みリーフ完成。領事館勤務の中村氏のはがき2通良いものである。沙市SHASI日本局欧文印は珍しいらしい。消印やっと読める状態なのでみなさん入札金額上げなかった様だ。私は裏の絵はがき部分、文面で船名判明、船内で投函と書かれているのみで大満足である。

揚子江関連、後1リーフ必要だが、もう材料なし。16リーフ目、大連汽船榊丸より投函PAQUEBO印。大連租借後、満鉄が開発した航路。初期は大連上海の連絡船だが、1915年より途中の青島も寄港開始。この逓信官史植草氏宛ての手紙は多数残っている。逓信省の教育機関勤務、多数の教え子船舶の通信士等から手紙がある。はがき表面PAQUEBOT印は単純だが、裏面が面白い。青島寄港開始と船内郵便局勤務と書き込みが見られる。初期の印やっと16リーフ作成完了。ここまでで、書き込み間違い等結構発見、修正再作成である。

2フレーム目 上海英国局 中華郵政局

2リーフ目。前回と同じ中国でのPAQUEBOT使用の変化。一度解体して作成しなおし。まあ参考になる部分もあるがブラッシュアップ。一段と改良である。なかなか新しい手紙入手できず広がりも少ない。

英国船、欧州・極東航路復航海、横濱にて書いて上海投函はがき。POの船名調査必要。1907年初期の上海英国局のPAQUEBOT印。消印少し不鮮明だが間違いなし。特徴ある字体の英国局使用印である。なかなか見つからない。

同じ英国船から投函でも、中華郵政局受付PAQUEBOT印。1914年3月よりUPU加入のため中華郵政もPAQUEBOT取り扱い可能となる。中華局の枠付きPAQUEBOT印多数あるが日付けの読めるものは少ない。日本の絵はがき使用から欧州・極東航路の復航海投函と思われる。

英国船多数で使用。米国宛てはなかなか見つからず。日本郵船サンフランシスコ航路大洋丸から投函。郵趣便化? それでも米国切手貼りなかなかない。ホノルルから上海向け、最初の港で投函か?ふつうは横濱経由だが。これも当時の新聞等での追加調査必要である。

欧州航路伏見丸、鹿島丸から投函。上海・長崎スケジュール表から2通とも上海丸で長崎到着である。上海受取中華局枠付きPAQUBOT印のみだが到着印、三井物産社内到着印で確認できる。上海事変等で混乱しても郵便は中華郵政から日華連絡船に積み込まれ、遅れることもなく長崎に到着している。

ずいぶん昔入手。崩れた漢字部分何と読むか不明。由輪船信箱取出之郵件、日付入りはがき入手。中華郵政上海局の使用確定。2通とも漢字部分不鮮明。鮮明てがみは日付なし、なかなか両方のそろいは少ない。諏訪丸は官報告示で確認。文面から門司・上海航海中投函、裏面絵はがきからも再確認。下の絵はがきはハワイのもの。文面AI翻訳から1932.11.19日付判明。国際料金支払いドイツ宛て、なかなか良いはがきである。漢字部分がもう少し読めると価値アップだが残念。

この欧文KOBE枠付き船内郵便も多数あるが、差出地が香港、シンガポールとありここ1つ理解できなかったが、船で運ばれ、到着地で消印でやっと理解できた。このはがきは2通同一者から同一日付で差出。AIで内容確認、上は航海の様子、下のはがきは第二次上海事変の様子書かれているので2枚展示した。別のはがき展示かとも迷うがあえて2枚展示、文面の続きが読めるようにした。英文なのでこちらの目的が理解出来す。ここ一つダメかも。英文PAQUEBOT印枠付きと漢字船内郵便が併記。戦時色強くなり1937年より国語尊重、国威発揚の政策の一環で漢字への変更過度期。1938年から漢字のみとなる。

これも昔、結構高価で買い入れた思い出があるカバーである。1枚だが展示文かなかな書けず長期放置。やっと広東港浅いので、手前のワンポア錨地で中華郵政に引き渡される事を見つけてストリー展開である。1968年そう言えば広東港と言ってこの黄浦(Wanpoa)岸壁接岸、積荷したことを思い出す。広東港、香港の中継港で郵便も特殊扱い、PAQUEBOTも特殊と言うことである。外国便は船便の時代すぐ隣の大型貿易港香港へ転送すればスムーズに各国に送付できる。

この2通も、前の手紙と同時入手。どうしょうもなしと思っていたがCANTON局の消印バリエーションと思いリーフ完成。

大連局

ちょつと流れが混乱。再び上海中華郵政局。PAQUEBOT使用郵便増加のためか?日付印の中にPAQUEBOT組み込み印。お気に入りである。しかし活字小さいため鮮明印が少ない。日付が完全に読めるものは少ない。これは大型封筒。日本郵船、欧州航路靖国丸のディナーメニュー使用日本宛てに書かれた手紙です。大型なので処理に困り放置していたが、切り込み入れ裏側から貼り付け。全体に紙が焼けているのが、不満である。

中華郵政局消印、SS.Canton船上投函上海消印。日本の港で日本切手で投函、上海にてPAQUEBOT取り扱い。この船はこの後復航海、英国帰着後巡洋艦に改装。下のはがきも1940年消印不鮮明だが、手書き日付けで推定。日本郵船大洋丸が戦時体制で国策会社東亜汽船、に定期用船され上海航路専用となる。

天津中華郵政局、日付印付き枠付きPAQUEBOT印。船上にてが読み取れる。日本船か不明。

青島中華郵政局、日付け判明PAQUEBOT印。大連丸から投函。上海・大連を結ぶ大連汽船の連絡船が途中の寄港地青島で投函したもはがき。乗船記念印も押されている。日本の料金変更で1銭から1銭5厘へ。

PAQUEBOT大連日本局

1922年日本局扱い、舩内郵便日本語表記です。大連は日露戦争後ロシアから租借権を継承。早くから日本の逓信省の直轄地で日本の郵便制度をそのまま適用していた。船から投函はるぴん丸、台中丸と船名判明。大阪商船大連航路所属連絡船である。

船内投函、はるぴん丸船内にての書き込みが嬉しい。ばいかる丸は絵はがきで投函推定。大連漢字消印。大型の船内郵便証示印。まったく日本と変わりなし。

消印がDIREN IJPOの欧文印消し。大連汽船大連丸から投函。裏面の地図の絵はがきが面白い。

大阪商船亜米利加丸、小判封緘はがき3銭使用は珍しい。日本と変わらず。文面から船内投函わかる。

3フレーム目

日本郵船上海長崎神戸航路、船名判明2通。官報告示を調査確定した。1912年、船内郵便漢字とPAQUEBOT英文2段証示印珍しい。いずれも上海居留民差出。

1913年赤い枠入り船函揚げ、2通とも上海居留民投函。官報告知で船名確定。上海日本局で郵便袋に封入。長崎で消印宛先に送付された。

日本郵船日華連絡船。1923年長崎丸、上海丸就航。同じ証示印だが、黒と赤。赤印が華やかでよい。上海居留民より日本宛て、長崎局開封宛先に送付。

1936年使用、日付け印内にPAQUEBOTがあるタイプ。多数の郵便物処理、消印と証示印2回押しより、一回で終わりのこのタイプの消印が時間節約になる。

機械印、消印作業の効率化は機械印導入である。上海居留民大量の郵便が上海より日華連絡船を利用届く。2通とも上海丸輸送。weeklyサービス土曜日長崎入港。

機械化に続いてローラー印にて処理。手動の押し印よりは早いか。消印鮮明なものは少ない。大型封筒には便利です。上は裏面絵はがきから長崎か ??ANのみ、残念な消印。下は最近入手大連ローラー印カナダ宛て。Hokingカタログとまったく同じ日付け、1930.10.10大連PAQUEBOT押し後、上海にてカナダ客船Empree of Japanに積み込まれた。と書き込みあるが上海の新聞ではもう出港している。AI情報では上海の消印24支局四川路局らしいが他のAIは別の局なのでちょっとこのカバー偽物か? とも思う。裏面にも同じローラー印押されている。まあローラー印で郵便の大量処理例です。

これも印の薄い1928年の長崎ローラー印。裏面欧州航路、箱崎丸差出書き込み、到着書き込みあり。

山口県大島郡宛て、写真入り大型封筒、処理に困っていたがリーフカット裏面より張り込み。上海陸戦隊からの封筒です。年が不明。しかし陸戦隊派遣、到着日付け曜日にて。weeklyサービス金曜日上海土曜日長崎で1933年確定。

門司PAQUEBOTは少ない。青島航路、大連航路たくさんの船が門司港に寄港する。なぜかほとんどの郵便物が下関局に送付されるからです。岸壁から200mくらいで唐戸通船に乗り場15分もあれば対岸下関局に送付可能です。門司局よりはるかに近く、外国郵便交換局です。左の門司消印が読め枠入り船函郵便、右は枠なし舩函郵便です。消印なしですが裏面青島、投函日付け1923.7.18の暑中見舞いです。

門司のPAQUEBOT珍しい。 ほとんどの門司港揚げの郵便物は対岸下関局に送られ開封、下関局のPAQUEBOT印が押されている。 岸壁から約200メートルで唐戸渡船があり約15分で対岸下関局である。 このはがきは文面から英国PO社のSS.Kashgahに郵便依頼したものらしい。 英国船で手配して間違いなく門司のPAQUEBOT印取得している。 欧州・極東航路で上海から門司間で書かれていること、が記載されているのが良い。

下関・細江局舩揚印珍しいらしい。 残存10通、地味なはがき赤マークで少し目立たせる。 1921年9月14日下関局に局名改称外国郵便取り扱い一等局。現在の唐戸市場のある門司からの唐戸渡船船着き場すくそばにあった。

下関PAQUEBOT印で一番多い青島差出、門司陸揚げ下関局消印。青島居留民が投函郵便物を郵袋に詰めて、船で門司へ送付。門司港から再短距離地下関局に送付、開封PAQUEBOT印押し宛先に配達。門司港の一号岸壁から約200mで唐戸渡船、渡船約10分で唐戸の下関局運び込み可能。

ラスト4リーフ、手紙から読み取り

なかな良いお気に入りのはがきです。軍医から差出、愛知県宛て。軍事郵便でなくPAQUEBOT扱い。近海郵船景山丸絵はがき。すぐにストリー完成リーフ完成である。歴史的背景、第二次山東出兵、日付等も一致。

これも軍事郵便でなく、PAQUEBOT扱いで青島より郵袋に詰めて、下関開封である。唐山日本軍守備隊どこにあったか、歴史的にどんな役目かそこまでは調査していない。コレクターは遠いい昔の戦争には余り興味なく、赤い下関PAQUEBOT印だけで満足である。

大阪商船公式封筒、便箋お気に入り。うらる丸投函、文面大黒山列島より….ばいかる丸乗り上げ….の文面興味深い。

AIで英文すべて活字化して内容読み取り。天津航路船から投函、下関から横濱おくり米国宛て。忙しく画像アップ内容チェック間違い10ヶ所忙しく修正、再確認である。

5フレームに追加参考資料

Paquebot Mailの制度的変遷(UPU条約以降)

1. UPU成立前:Paquebotという考え方の背景

19世紀後半、外洋定期航路が急増し、船の中や寄港地で投函された手紙(港にまだ上陸していない段階の郵便物)が増加。しかし当時は、どこの国がこの手紙を引き受けるのかが曖昧で、料金や取扱いに混乱があった。1874年ベルン条約によるUPU創設当初も、船内投函郵便は制度的に未整理で、各国慣行(Ship Letterなど)が混在していた。

2. UPUの原則確立:船内郵便の扱い

19世紀末~20世紀初頭、UPUは次の原則を定めた:
① 船内差出郵便物は、船が最初に寄港した加盟国の郵便当局が引受局となる。
② 料金はその国の国内引受相当で処理できる。
③ 船上差出を示す表示として“PAQUEBOT”を使用する慣行が定着。
この制度により、どの国の切手であっても合法的に受理可能となった。

3. 実務定着(1900年代初頭~1920年代)

船内での投函→港での受理→Paquebot印押印という手続きが世界各地で定型化。日本でも日清汽船・大阪商船・日本郵船が船内郵便局を設置し、湖南省航路の例などが確認される。各国港湾では、外国切手貼付郵便の受理・不足料処理が行われ、国際郵便制度の完成形を示した。

4. 港湾ごとの特色とPaquebot消印

イギリス系港では“PAQUEBOT”+港局日付印が標準化。日本はUPU加盟(1877年)後、1930年代には和文「船内郵便」印を使用し独自化。神戸港の角形印などは国際制度を日本的に運用した象徴である。満洲や租界では、日本郵便局がUPU枠組内で独自運用を行い、政治的意味を帯びた。

5. 戦間期(1920~1930年代):制度から文化へ

Paquebot郵便は旅客・商社・観光郵便として普及し、船名入り印・船内印が記念的役割を持つようになる。同時に各国語による表記の多様化(英語・日本語・露語など)が進み、国家的主張も反映される。日本の「船内郵便」印は、国際語PAQUEBOTからの離脱を示す。

6. 戦時期(1930年代後半~1940年代)

戦時下では検閲と統制が強化され、船内郵便は軍事的通信とみなされる。PAQUEBOT表示は減少し、日本語「船内郵便」印が主流化。シベリア経由郵便なども登場し、平時の自由な船上通信は失われていく。

7. 展示構成の柱(要約)

A:UPU創設と船内郵便の法制化
B:国際Paquebot制度の成熟と世界的普及
C:日本の独自運用(船内郵便印)
D:戦時期の統制とPaquebotの終焉
→ 制度の国際化からナショナル化への変化を明確に示すことができる。8. 結論

Paquebot郵便は、UPUが郵便制度の空白を埋めた結果生まれた国際制度。その後の100年で、国際統一→港湾独自化→国家主導化→戦時管理化という変遷をたどった。制度・文化・政治の三層を一体的に示す展示構成が、最も効果的な解釈である。