小樽OTARU 欧文印 09.4.10. PAQUEBOT朱印 ロシア切手10K貼 函館和文到着印42.4.10
裏面ウラジオストック明治42年4月7日徳永旅館差出カバー入手リーフ作成。最近少しデーター入手研究開始です。
HOSKINGカタログにもデータなし。Fig1550まあ少し似ているが使用年代が異なる。
幸運な事に内部に手紙が残っていたので、この筆書きの和文完全読解する事により時代背景理解できそう。しかし達筆完全には不可。交通丸で煙草小樽宛て送付程度は理解できる。
そこで最近入手交通丸データーで研究開始。
1902年(明治35年)2月日本海航路政府の委託受けた大阪海運業者大家七平運航開始。
交通丸航路 ONE ROUND 40日
門司 敦賀 七尾 ウラジオストック 敦賀 七尾 函館 小樽 コルサコフ 小樽 函館
ウラジオストック 門司
1902.5.27.-1904.1.9.交通丸函館局郵便取扱所として短期間船舶局(SEAPOST)が開設された。
船内局(SEAPOST)閉鎖後もこの敦賀経由小樽航路は存続していたと思える。船名不明だが1909年ウラジオストックで投函。宛先が北海道なので敦賀で陸揚げされず、小樽にてPAQUEBOT印押し陸揚げ函館宛先に配達されたと思われる。航路ローテーションからするとなぜ函館にて陸揚げされなかったのか? 不思議な部分もあるがクリアーにOTARUの欧文印またPAQUEBOT証示印が押されているので間違いなく小樽揚げと思われる。また小樽函館同日日付。外国便は特別に早く逓送したのか? もう少し資料入手研究を続けよう。
まああまり見たことのない小樽のPAQUEBOTパックボーカバーの珍品か?
下の地図を見ながらあれこれ思いを巡らせている。関係資料ありましたらご教授お願いします。
散歩しながらふと思いついたのが、4月荒天で船のスケジュール遅れ函館港抜港となったのでは?
定期航路では各港のスケジュール綿密に決められ積み荷の手配等事前準備もあり、最初のスケジュールから遅れてくると、遅れを取り返すため抜港と言う手段は良く取られる。昔船乗りだったことを思い出す。門司起こしウラジオストック経由敦賀北海道行き後ウラジオストックの40日のローテーションは厳密に守られた思う。