
The Paquebot used in Dalian (Part I)
Inaba Ryoichi
The first setup cruise line between Manchu and Japan is the Kobe-Newchwang Line in 1890 (Meiji 23rd Year), operated by Japanese ships. Later in 1899 (Meiji 32nd Year), the Kobe-Northern China Line is operated, west bound started from Kobe, via Shimonoseki, Chefoo (Chifu), Tientsin and reached Newchwang. The east bound started from Newchwang, only via Chefoo (Chifu) and reached Kobe. The Line is operated with two ships, each ship has once round-trip per two weeks (almost twice trips per month). Estimated these ships should carry mails, however, no “Paquebot” postmark chopped be confirmed within mails. Shown on Figure 1, is the cover sent from Newchwang to Kobe. It should be carried by Newchwang mails. Shown on Figure 1, is the cover sent from Newchwang to Kobe. It should be carried by this Line because it chopped with Kobe Paquebot, and it is chopped Newchwang Tie-mark in 1899. Within this Line it chopped with Kobe Paquebot, and it is chopped Newchwang Tie-mark in 1899. Within this Line, additional that, mails delivered from China to Japan or from China to international countries via Japan within this period, generally would be handled via I.J.P.O Shanghai.
However, in this period, the Russia establishes Steamboats of South Manchuria Railway Company starting from 1899 (Meiji 32nd Year), operates many routes between Port Arthur (Ryojun), Dalian and Imperial China, Korea, ports of Japan, and Vladivostok. Shown on Figure 2, is postcard sent from Dalian (Chingniwa) to Osaka, Japan at January 4, 1904 (Meiji 37th Year). This postcard is estimated via this route and via Nagasaki with Nagasaki Framed PAQUEBOT mark. Because the Newchwang has not enough water depth and frozen incapability for using during the winter season, therefore the Dalian substituted Newchwang as the terminal porty of the Sea Lines after the Russo-Japanese War (February 8, 1904 – September 5, 1905).
The important sea lines between Manchu and Inland Japan are started from Dalian, especially direct routes even have indirect routes via Korea Peninsula, for example, the Osaka-Dalian Line. The Osaka-Dalian Line is started from Osaka, via Kobe, Moji (Fukuoka), and ending in Dalian in 1905 (Meiji 38th Year) after the Russo-Japanese War. Through the Manchu Japan United Transportation Company established in April 1910 (Meiji 43rd Year), the Japan Manchu Russia United Transportation Company established in March 1911 (Meiji 44th Year), and the Europe-Asia United Transportation Company established in June 1913 (Taisho 2nd Year), the Osaka-Dalian Line becomes the essential link between Europe and Asia, and plays the important role on the international traffic business.
Within the Late Taisho and Showa period, the Dairen Kisen K.K (100% invested by The South Manchuria Railway Company, Ltd.) operates the routes between Dalian and inland Japan, connected with Nagoya, Tokyo, Kawasaki and Yokohama as major Lines. These Lines have the large capabilities of transportation. During the Late Taisho period, some commercial ships of Osaka and Korea are operated between Kawasaki and Dalian. During Showa period, Japanese Postal ships are operated between Hokkaido and Dalian. Both are fulfilling requirements of citizens as shown on Figure 3.
After ending the Russo-Japanese War, Japan takes the Liaotung Peninsula and South Manchuria Railway Zone, and uses the South Manchuria Railway and Trans-Siberia Railway to delivery mails to Europe after October 1907 (Meiji 40th Year). Thereafter, for delivering mails of China to Europe, the Peking-Hankow Railway is connected to the South Manchuria Railway at Fengtien (Shenyang or Moukden) on October 28, 1908 (Meiji 41st Year), and at the same day, the subsided company of The South Manchuria Railway Company, Ltd. (thereafter the Dairen Kisen K.K) installs the Shanghai-Dalian Sea Line and the original ships operated by Russia South Manchuria Railway Company would be turned over to Japan. The mails to Europe will be handled at Dalian to connect the express railway trains operated in South Manchuria Railway and Trans-Siberia Railway. Furthermore, the line is centralized between Dalian-Tsingtao-Shanghai as shown on Figure 4.
The essential characteristics of the Dairen Kisen K.K. are these sea lines based on these sea ports of China, not as previously the links between China and Japan. This is the attempts that most travelers or foreign capitalists and lived in the big cities of China take the sea lines and railway trains operated in South Manchuria Railway and via Trans-Siberia Railway to Europe, for saving the long trip via oceans.
In this article, 8 illustrations are displayed in more details.
ダーリエンで使用されたパクボ郵便(第1部)
稲葉良一
最初に設けられた満州と日本間の定期航路は、1890年(明治23年)に開設された神戸–ニューチワン(営口)航路で、日本船によって運航された。その後、1899年(明治32年)には神戸–華北航路が開設され、西行き便は神戸から下関、芝罘(チフー/チーフー)、天津を経て営口へ、東行き便は営口から芝罘を経て神戸へ至った。この航路は2隻の船により運航され、各船が約2週間に1往復(ほぼ月2便)を行っていた。これらの船は郵便物を運んでいたと推定されるが、「PAQUEBOT(船内郵便)」印が押された郵便物は確認されていない。
図1に示すのは、営口から神戸に送られたカバーである。この郵便物は神戸パクボ印が押されており、1899年に営口日付印が加押されている。このことから本航路によって運ばれたことが分かる。この時期、中国から日本、または中国から国際宛の郵便物は、一般的に上海の日本郵便局(I.J.P.O. Shanghai)を経由して処理されていた。

一方この時期、ロシアは南満州鉄道会社(South Manchuria Railway Company)の汽船を運航し、1899年(明治32年)以降、旅順(Port Arthur / Ryojun)、大連、清国各地、朝鮮、日本の港、およびウラジオストクを結ぶ多くの航路を設けた。図2に示すのは、1904年(明治37年)1月4日付で大連(青泥窪/Chingniwa)から大阪へ送られた葉書であり、この航路を経由したものと推定される。長崎経由で運ばれ、長崎枠付き「PAQUEBOT」印が押されている。当時、営口港は冬季に凍結し水深が不足していたため、日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)以後は大連が海上航路の終着港として営口に代わる役割を果たした。

満州と日本本土を結ぶ主要航路の多くは大連発着であり、朝鮮半島経由の間接航路もあったが、代表的なのは大阪–大連航路である。この航路は1905年(明治38年)に大阪を起点とし、神戸・門司(福岡)を経て大連に至った。日露戦争後、1910年(明治43年)に設立された「満日聯合運輸会社」、1911年(明治44年)の「満日露聯合運輸会社」、および1913年(大正2年)の「欧亜聯合運輸会社」を通じて、大阪–大連航路はヨーロッパとアジアを結ぶ重要な交通の要衝となった。
大正末から昭和期にかけて、南満州鉄道株式会社(満鉄)が全額出資した「大連汽船株式会社(Dairen Kisen K.K.)」は、大連と日本本土(名古屋・東京・川崎・横浜など)を結ぶ航路を運航した。これらの航路は大量輸送能力を持ち、大正後期には大阪や朝鮮発着の商船も川崎–大連間を運航していた。昭和期には、北海道–大連間にも日本郵船による郵便船航路が開設され、市民の交通需要に応えた(図3参照)。
日露戦争終結後、日本は遼東半島と南満州鉄道附属地を獲得し、南満州鉄道およびシベリア鉄道を利用して1907年(明治40年)10月以降、ヨーロッパ宛郵便の輸送を行うようになった。その後、中国本土からヨーロッパ宛郵便は、1908年(明治41年)10月28日に開通した北京–漢口鉄道(Peking–Hankow Railway)を奉天(瀋陽/Mukden)で南満州鉄道と接続して輸送された。同日、満鉄の子会社として大連汽船株式会社が設立され、ロシアの南満州鉄道会社が運航していた上海–大連航路も日本側へ引き継がれた。
これにより、ヨーロッパ宛郵便は大連で取り扱われ、南満州鉄道およびシベリア鉄道の急行列車に接続して輸送されるようになった。さらに航路は大連–青島–上海間に集約された(図4参照)。
大連汽船株式会社の本質的特徴は、従来の「中国–日本間の連絡」ではなく、中国の海港を基盤とした新しい国際海上交通にある。つまり、外国人投資家や中国の大都市に居住する人々が、南満州鉄道およびシベリア鉄道経由でヨーロッパへ向かう際に、長い海上航路を避けて鉄道と連絡する海上ルートを選ぶようになったのである。
本稿では、これらの内容を説明する8点の図版を掲載している。
ダーリエンにおけるパクボ郵便の発展(年代別要約)
- 1890年(明治23年)
- 1899年(明治32年)
- 1904年(明治37年)
- 1905年(明治38年)
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)
- 1913年(大正2年)
- 1910年代末〜昭和期
- 総括
- 1908年(明治41年)
- 1909年(明治42年)
- 1912年(明治45年)
- 1924年(大正13年)
- 1927〜1929年(昭和2〜4年)
- 1932年(昭和7年)
- 1934年(昭和9年)
- タイプI(類型I)
- タイプII(類型II)
- タイプIII(類型III)
- タイプIV(類型IV)
- タイプV(類型V)
- 1908年(明治41年)
- 1914〜1916年(大正3〜5年)
- 1919〜1924年(大正8〜13年)
- 1925〜1934年(大正14〜昭和9年)
- 1929〜1934年(昭和4〜9年)
- 1930年(昭和5年)
- 1932年(昭和7年)
- 1934年(昭和9年)
- 1939〜1940年(昭和14〜15年)
- 1930年代後半〜戦前期
- Ⅰ.欧文「PAQUEBOT」印の分類
- Ⅱ.和文「船内郵便」印の分類
1890年(明治23年)
神戸–営口(Newchwang)航路開設。日本船による初の満州–日本間定期航路。神戸から下関、芝罘、天津を経て営口へ。郵便物輸送はあったが「PAQUEBOT」印は未確認。
1899年(明治32年)
神戸–北支那航路開設。営口–神戸便に神戸パクボ印・営口日付印付きカバー確認。ロシア南満州鉄道会社が設立され、旅順・大連・清国・朝鮮・日本港間の航路を運航開始。
1904年(明治37年)
日露戦争開戦。大連(青泥窪)→大阪宛葉書が長崎枠付きPAQUEBOT印で処理。営口港凍結により大連が終着港として機能。
1905年(明治38年)
日露戦争終結後、大阪–大連航路開設(大阪–神戸–門司–大連)。日本–満州間の主要海上輸送路に。
1907年(明治40年)
日本が遼東半島と南満州鉄道附属地を掌握。南満州鉄道・シベリア鉄道連絡により、ヨーロッパ宛郵便輸送を開始(10月以降)。
1908年(明治41年)
北京–漢口鉄道開通、奉天で南満州鉄道と接続。同年10月28日、大連汽船株式会社設立。ロシア南満州鉄道の上海–大連航路を日本側が継承。
1910年(明治43年)
満日聯合運輸会社設立。大連–大阪間の国際海上交通体制を確立。
1911年(明治44年)
満日露聯合運輸会社設立。日露共同輸送体制を拡大。
1913年(大正2年)
欧亜聯合運輸会社設立。大阪–大連航路が欧亜間主要連絡線となる。
1910年代末〜昭和期
大連汽船株式会社(満鉄子会社)が日本本土主要港と大連を結ぶ大規模航路を形成。昭和期には北海道–大連間の郵便船航路を日本郵船が運航。
総括
大連汽船は中国海港を基盤とした国際交通を形成。外国人投資家や居住者が南満州鉄道・シベリア鉄道経由でヨーロッパへ向かう短縮ルートを利用。パクボ郵便はその一環として大連港で使用。



欧文『PAQUEBOT』印の年代別整理(大連使用)
1908年(明治41年)
・上海—大連航路の開設と同時に、欧州行郵便を大連で取り扱い開始。
・この時期に船内局で最初の『PAQUEBOT』印(タイプI)が使用開始されたと考えられる。
・当時のはがきでは2銭貼付で、料金不足(5Cms/T 不足)により10Cms請求が確認されている。
・大連–上海航路および欧亜連絡列車が運行開始(図5・図6)。
1909年(明治42年)
・営口凍結期の代替港として大連が主に使用され、欧州宛船内投函郵便が継続。
・図6の葉書は1909年6月23日大連→長春→バイア鉄道→ストックホルム宛。
1912年(明治45年)
・タイプI使用例:大連発船内投函はがき(図8)。
・安平宛で6月30日到着印、台湾観光団の使用例として知られる。
1924年(大正13年)
・タイプIの使用がこの頃まで確認される。色は紫、枠付セリフ体。
・大連—上海航路で主に使用。
1927〜1929年(昭和2〜4年)
・タイプIIの使用期。縦6mm×横35mmの枠、セリフなし、紫色印。
・大連—青島航路、大連—天津航路などで使用。
・図10:1928年7月28日天津→大連経由郵便(愛知宛)。
1932年(昭和7年)
・満洲国成立後の混乱期、タイプIが一部再使用。
・タイプIII(縦9mm×横38mm、紫色)登場。大連—上海・青島航路で使用。
・7月24日以降、中国郵政撤退に伴い、大連経由の欧州宛郵便が急増。
・図11:上海7.27→大連7.30→シベリア鉄道→オーストリア宛書簡。
1934年(昭和9年)
・タイプIV(縦5mm×横40mm、紫色)が確認。
・直線的でわずかに波打つ特徴をもつ印。
・上海→大連→シベリア鉄道→スイス宛カバー(図12)。
欧文『PAQUEBOT』印のタイプ別整理(大連使用)

タイプI(類型I)
・大きさ:縦10mm × 横39mm、枠付き、セリフ体、色は紫。
・使用期間:1908年(明治41年)〜1924年(大正13年)、再使用1932〜1934年(昭和7〜9年)。
・主な使用航路:大連—上海航路、欧州宛船内投函郵便。
・特徴:大型セリフ体で太い字体。後期には印面摩耗により枠欠け例も確認。
・代表例:1908年大連船内局使用開始(図6)、1912年安平宛はがき(図8)、1934年ロンドン宛書簡(図9)。
タイプII(類型II)
・大きさ:縦6mm × 横35mm、枠付き、セリフなし、色は紫。
・使用期間:1927〜1929年(昭和2〜4年)。
・主な使用航路:大連—青島航路、大連—天津航路。
・特徴:細身の直線体で、明確な文字間隔を持つ。
・代表例:1928年7月28日天津→大連経由書簡(図10)。
タイプIII(類型III)
・大きさ:縦9mm × 横38mm、枠付き、セリフなし、色は紫。
・使用期間:1932年(昭和7年)。
・主な使用航路:大連—上海航路、大連—青島航路。
・特徴:やや太字で整った文字形。満洲国成立後、中国郵政撤退期に多用。
・代表例:1932年7月27日上海→大連船内投函→オーストリア宛(図11)。
タイプIV(類型IV)
・大きさ:縦5mm × 横40mm、枠付き、セリフなし、色は紫。
・使用期間:1934年(昭和9年)。
・主な使用航路:大連—上海航路。
・特徴:直線的でわずかに波打つ字体。タイプIIIよりも細身。
・代表例:1934年11月13日上海→大連→シベリア鉄道→スイス宛(図12)。
タイプV(類型V)
・大きさ:太枠体で角張った字体をもつ(詳細次頁に記載)。
・使用期間:1930年代中期以降に一時的に使用された可能性。
・主な使用航路:調査中(上海・大連経由便と推定)。
・特徴:印影が濃く、欧州字形に近い太線体。

ダーリエンで使用されたパクボ郵便(第2部)
稲葉良一
本稿では、前回に続き7種類のタイプおよびその他のパクボ印について紹介する。これらは「CRISP」第15号に発表された記事を補足するものである。
【タイプV】
紫色インクによるサンセリフ体枠付き「PAQUEBOT」印。高さ10mm、長さ44mm。記録では1940年(昭和15年)の使用例があるが、太平洋戦争前の国際郵便においては非常に稀である(図13)。
【英文字ローリング型】
このタイプは1930年(昭和5年)9月21日から使用開始。関東庁告示第555号(1930年9月30日付)により制定された。また1934年(昭和9年)4月20日以降、国名表記変更(4月19日付)に伴い、消印「I.J.P.O.」は「I.N.P.O.」へ変更された(図14)。
このタイプのパクボ印は大連では極めて稀で、包封郵便などに2〜3例のみ確認されている。図15は切手上の例、図16ははがき上の例を示す。
【英文字コームデーター型】
このタイプは1932年(昭和7年)4月11日から関東庁告示により使用された。同様に1934年(昭和9年)4月20日以降、「I.J.P.O.」は「I.N.P.O.」に変更された(図17)。
「I.J.P.O.」使用例は1件のみ記録されているが未確認であり、実際には「I.N.P.O.」が一般的であった。この時期、英語「PAQUEBOT」と日本語「船内郵便」印が併用されていた。「I.J.P.O.」は公告されたが、実例は少ない。
1934年(昭和9年)から1939年(昭和14年)にかけて、大連—上海航路で国内および国際郵便に使用された例が知られる(図18)。
【日本語タイプ】
記録によれば、日本語「船内郵便」印は1914年(大正3年)から1934年(昭和9年)の間に使用され、大連—上海、大連—天津、大阪—大連航路において、欧州向け国際郵便および国内郵便に使用された。大連郵便局では4種類の亜型が存在する(図19)。
タイプI:枠付き楷書体「船内郵便」印。赤または紫インク。高さ12mm、長さ36mm。1914〜1916年(大正3〜5年)の使用が記録され、大連—上海航路に多い(図20)。
1908年(明治41年)3月30日以降、「CHINA」加刷または加税切手の使用は禁止されたが、多くのパクボ郵便は営口局で集荷され、鉄道(大石—営口線)経由で南満州鉄道区域へ転送・処理された。
タイプII:枠付き「船内郵便」印。赤または紫インク、一部黒インクも存在。高さ13mm、長さ38mm。1919〜1924年(大正8〜13年)の使用が記録され、中国沿岸航路および大阪—大連航路に多い(図21)。
タイプIII:枠なし「船内郵便」印。紫または赤インク。高さ9mm、長さ32mm。1925〜1934年(大正14〜昭和9年)の使用が記録され、中国沿岸航路および大阪—大連航路に多い(図22)。
タイプIV:大型・枠なし「船内郵便」印。紫インク。高さ11mm、長さ56mm。1929〜1934年(昭和4〜9年)の使用が記録され、大連—天津および大連—青島航路で使用された(図23)。
その後、大連郵便局では阿波汽船株式会社(現:協同汽船会社)の「第16共同丸」でこのパクボ印を使用した例があり(図24参照)、また2020年11月5日付『郵便史』(鈴木孝夫著、『Postmarks and Covers』Vol.13 No.2)によれば、「第36共同丸」にも同様の印の使用が確認されている(図25)。
阿波汽船株式会社は主に徳島—大阪・徳島—神戸航路を運航したが、これに加えて以下の航路を運営していた:
・大連—青島—青島航路(大連、芝罘、青島)
・大連—仁川航路(大連、芝罘、威海衛、仁川)
・大連—天津航路(大連、天津)
・大連—芝罘航路(大連、芝罘)
これらの航路は、主に子会社運航の「第16共同丸」「第36共同丸」などで運用された。これらのパクボ印は郵便局の公式使用ではなく、民間汽船会社の便宜的な使用と考えられる。具体的な使用実態は未解明であり、研究記録としてここに残す。
ダーリエンで使用されたパクボ郵便(第2部)年代別整理
1908年(明治41年)
・3月30日以降、「CHINA」加刷や加税切手の使用が禁止。
・営口局で収集されたパクボ郵便が鉄道(大石–営口線)経由で南満州鉄道区域に転送され処理される。
1914〜1916年(大正3〜5年)
・タイプI:枠付き楷書体『船内郵便』印。赤または紫インク、高さ12mm×長さ36mm。
・大連—上海航路で使用(図20)。
1919〜1924年(大正8〜13年)
・タイプII:枠付き『船内郵便』印。赤・紫・黒インク、高さ13mm×長さ38mm。
・中国沿岸航路および大阪—大連航路に使用(図21)。
1925〜1934年(大正14〜昭和9年)
・タイプIII:枠なし『船内郵便』印。紫または赤インク、高さ9mm×長さ32mm。
・中国沿岸航路および大阪—大連航路で使用(図22)。
1929〜1934年(昭和4〜9年)
・タイプIV:大型・枠なし『船内郵便』印。紫インク、高さ11mm×長さ56mm。
・大連—天津航路および大連—青島航路で使用(図23)。
1930年(昭和5年)
・英文字ローリング型登場。関東庁告示第555号により制定(1930年9月30日付)。
・使用開始は同年9月21日。以後『I.J.P.O.』印として一部郵便物に使用(図14)。
1932年(昭和7年)
・英文字コームデーター型登場(4月11日、関東庁告示による)。
・同時期に『I.J.P.O.』から『I.N.P.O.』への切替が通達。
・『I.N.P.O.』が主流となり、『I.J.P.O.』は極めて少ない。
1934年(昭和9年)
・国号変更(4月19日)に伴い、正式に『I.J.P.O.』→『I.N.P.O.』へ改称。
・英語『PAQUEBOT』および日本語『船内郵便』印が併用。
・タイプV(紫色サンセリフ枠付き印、高さ10mm×長さ44mm)が登場(図13)。
・同年から1939年まで、大連—上海航路で国内・国際郵便に広く使用(図18)。
1939〜1940年(昭和14〜15年)
・パクボ印の国際郵便での使用が減少。
・1940年(昭和15年)使用のタイプVが確認されるが、戦前では極めて稀。
1930年代後半〜戦前期
・阿波汽船(現・協同汽船)が第16共同丸・第36共同丸などで大連航路を運航。
・民間汽船会社による便宜的なパクボ印使用が見られるが、公式使用ではない(図24・図25)。






大連で使用された船内印・船内郵便印(タイプ別まとめ)
出典:稲葉良一「大連で使われた船内印(PAQUEBOT)」より、pp.116–121の要約
Ⅰ.欧文「PAQUEBOT」印の分類
タイプV(類型V)
・枠寸法:縦10mm × 横44mm
・印色:紫
・セリフなしの「PAQUEBOT」印で、1940年(昭和15年)のみ確認。
・当時は外国郵便が激減しており、実例は極めて稀。
・図13:1940年2月1日 大連発→アメリカ宛(INTERNATIONAL SEAPOST COVER CLUB宛)。
欧文ローラー「PAQUEBOT」印
・使用開始:1930年(昭和5年)9月30日、関東庁告示第555号による。
・1934年(昭和9年)4月19日付でIJPO→INPOへ改称。
・ローラー式「DAIREN I.J.P.O./PAQUEBOT」および「DAIREN I.N.P.O./PAQUEBOT」が確認される。
・使用例は非常に少なく、2〜3通程度のみ。

楕円欧文「PAQUEBOT」印
・使用開始:1932年(昭和7年)4月11日。
・1934年4月19日以降「I.J.P.O.」から「I.N.P.O.」に改称。
・上海航路など外国郵便処理に使用。
・1934〜1939年にかけて使用例が知られる。

Ⅱ.和文「船内郵便」印の分類
タイプI(類型I)
・枠寸法:縦36mm × 横12mm
・印色:赤紫
・使用期間:1914年(大正3年)〜1916年(大正5年)
・大連–上海線で使用。封書・葉書例が知られる。
・図20:1916年7月27日奉天発→大連着(翌日着)。
タイプII(類型II)
・枠寸法:縦38mm × 横13mm
・印色:赤(希に紫または黒)
・使用期間:1919年(大正8年)〜1924年(大正13年)
・中国沿岸航路・大阪–大連航路などで使用。
・図21:1922年 金中丸による大連宛葉書。
タイプIII(類型III)
・枠なし、寸法:縦32mm × 横9mm
・印色:赤または紫
・使用期間:1925年(大正14年)〜1934年(昭和9年)
・中国沿岸航路、大連–天津・青島線で使用。
・図22:1932年アメリカ丸による大連宛葉書。
タイプIV(類型IV)
・最大型:縦56mm × 横11mm、枠なし
・印色:紫
・使用期間:1929年(昭和4年)〜1934年(昭和9年)
・大連–天津・青島線で使用。
・図23:1929年7月7日大連宛(山東省主要物産地図付き葉書)。


