
小雨の中、横濱開港資料館訪問した。資料の閲覧予約取らず、散歩の途中ざーと内部見学。特別展示のため、関東大震災の写真も1枚のみ。開港時代のみの写真展示見る。目が悪いので小さい文字は良く見えず。前回の経験から写真撮り、その後AIで解析する。成功である。以下解析結果満足の資料以下である。

東アジアの開港場 / Opening of Ports in East Asia
- 写真資料 / Photographic Records
- 19世紀中頃の開市・開港場 / Treaty Ports in East Asia in the Mid-19th Century
- 要約 / Summary
- 日本語文
- English Text
- 写真と説明 / Photos and Captions
- 要約 / Summary
- 解説 / Description
- 運上所より東異人商館町を見込たる之図 / View of Foreign Merchants’ Establishments from the Customs House
- 本町五丁目石川生糸店之図 / Store of the Silk Merchant Ishikawa in 5-chome, Hon-chō
- 要約 / Summary
- 日本語解説
- English Description
- 要約 / Summary
- 日本語解説
- English Description
- 図版と模型 / Images and Model
- 要約 / Summary
- 主要年表 / Timeline of Key Events
- 要約 / Summary
- 資料総合レポート
- Ⅰ. 東アジアの開港と国際貿易の拡大
- Ⅱ. 日米修好通商条約と港の開設
- Ⅲ. 横浜の都市形成と外国人居留地
- Ⅳ. 咸臨丸と遣米使節団の航海(1860年)
- Ⅴ. 明治期の旅券制度と国際交流
- Ⅵ. 幕末から明治への転換期:年表的整理
- 結論 / Conclusion
- 追加
- Ⅰ. 1864年 横浜発欧州宛郵便の実態
- Ⅱ. 郵便印と料金体系
- Ⅲ. 船舶輸送とスエズ地峡の通過
- Ⅳ. 郵便史的意義
- Ⅴ. 1864年前後の代表的船舶記録
- Ⅵ. 今後の研究課題
- Ⅶ. 結論
写真資料 / Photographic Records
長崎 1875年頃 横浜開港資料館蔵
Nagasaki, circa 1875, Yokohama Archives of History
神戸 1890年頃 横浜開港資料館蔵
Kobe, circa 1890, Yokohama Archives of History
仁川 1900年頃 ハミルトン『韓国』(1904)より、岩橋蔵
Inchon, circa 1900, from Angus Hamilton, “Korea,” 1904
香港 1898年頃 横浜開港資料館蔵
Hong Kong, circa 1898, Yokohama Archives of History
上海 1878年『ファー・イースト』第4巻第3号(1878.3)より
Shanghai, 1878, The Far East, March 1878
19世紀中頃の開市・開港場 / Treaty Ports in East Asia in the Mid-19th Century
この地図は、19世紀中頃に締結された不平等条約によって開かれた東アジア各地の開港場を示している。アヘン戦争後の1842年南京条約、1858年天津条約、1895年下関条約などにより、中国沿岸部、日本、朝鮮半島の港が外国貿易のために開放された。
主な港:
日本:長崎、神戸、横浜、函館
中国:上海、寧波、広州、天津
朝鮮:仁川、釜山、元山
その他:香港など
要約 / Summary
この展示は、19世紀中頃における東アジアの開港・開市の歴史的過程を示すものである。地図は不平等条約による港の開放を年代別に表し、写真は当時の主要港湾都市の景観を紹介している。これらは、開港が東アジア諸国の近代化と国際貿易の出発点であったことを伝えている。

The Opening of the Port / 港の開港
日本語文
日米和親条約により日本の開国に成功したアメリカは、つづいて日本の港を開いて貿易を行うため、通商条約の締結をめざした。駐日総領事ハリスは、長い交渉の末、安政5年(1858)6月、幕府と日米修好通商条約を締結した。この約条により、日本は函館・新潟・神戸・長崎の5港を開港することになった。幕府は同年中にオランダ・ロシア・イギリス・フランスの各国とも通商条約を結び、日本と諸外国との貿易が始まった。
English Text
Once Japan was opened through the Treaty of Kanagawa, the United States proceeded to secure a commercial treaty in order to open Japanese ports for trade. After extensive negotiations, the American Consul General, Townsend Harris, succeeded in concluding the Treaty of Amity and Commerce (Ansei Treaty) with the shogunate in July 1858. Under the conditions of this treaty, five ports were opened at Hakodate, Niigata, Yokohama, Kobe, and Nagasaki. The Japanese entered into similar commercial treaties with the Netherlands, Russia, Britain and France that same year, opening the way to trade between Japan and other countries.
写真と説明 / Photos and Captions
ハリス
安政5年(1858)7月、幕府とアメリカ修好通商条約を締結した駐日アメリカ総領事。交渉のため下田に滞在した。アメリカ議会図書館蔵。
Townsend Harris
In August 1858, Townsend Harris went to negotiate in Shimoda as the first American Consul General. He concluded the U.S.-Japan Treaty of Amity and Commerce, which was signed on the U.S. naval ship Powhatan on July 29, 1858. (The Library of Congress, Washington, D.C.)
玉泉寺
駐日アメリカ総領事ハリスが下田の了仙寺に駐在後、領事館(下田玉泉寺)に居を定め、通訳ヒュースケンの支援を受けて交渉を進めた。シーボルトのスケッチより。
Gyokusenji Temple
The first American Consulate was established here in Shimoda, where Consul General Harris negotiated the treaty with the shogunate. The temple was used as his residence, and he was assisted by his interpreter, Henry Heusken.
江戸城に謁見するハリス一行
安政4年(1857)10月、ハリスが江戸城に謁見するため江戸参府の大行列に向かうところ。随員のヒュースケンが描いた。下田市博物館蔵。
Harris and Company Arriving at Edo Castle
This picture shows Townsend Harris visiting Edo Castle in 1857 for an audience with Shogun Tokugawa Iesada. Drawn by Henry Heusken, Harris’s interpreter. (Shimoda City Museum).
要約 / Summary
この展示は、日本の開国から通商条約締結までの外交過程を紹介するものである。アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは、長期交渉の末に安政5年(1858)に修好通商条約を締結し、函館・新潟・横浜・神戸・長崎の5港が開かれた。さらに日本は同年、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも通商条約を結び、国際貿易が本格的に始動した。展示図版は、ハリスの肖像、玉泉寺領事館、江戸参府行列の三点で、幕末の開港外交の実像を視覚的に伝える。

横浜開港見聞誌 / Yokohama Kaiko Kenbunshi
解説 / Description
『横浜開港見聞誌(Yokohama Kaiko Kenbunshi)』は、横浜開港後の様子を描いた錦絵で、開港直後の1865年(慶応元年)頃に刊行された。外国人居留地や商館、港の光景を生き生きと描き、幕末の横浜が国際貿易港として成長していく姿を伝える貴重な資料である。
Yokohama Kaiko Kenbunshi (Report of Observations and Heard in the Open Port of Yokohama) was published around 1865, depicting life and scenes in Yokohama shortly after its opening in 1859. It offers valuable visual records of the foreign settlement, trade activity, and the emerging modern port city.
運上所より東異人商館町を見込たる之図 / View of Foreign Merchants’ Establishments from the Customs House
外国人居留地本町通の光景で、右手の建物は著名な貿易商社サッスーン商会。現・中区山下町75番地のあたりに位置する。開港初期の外国商館街の様子を伝えている。
This illustration depicts Main Street in the foreign settlement area. The building on the right is Sassoon, Sons & Co., a major British trading firm. The site corresponds to today’s 75 Yamashita-chō, Naka Ward, Yokohama. It captures the atmosphere of the early foreign merchants’ quarter in the port.
本町五丁目石川生糸店之図 / Store of the Silk Merchant Ishikawa in 5-chome, Hon-chō
カルコ(生糸を運び込む日本人労働者)と、品定めをする外国商人の姿を描く。石川屋は幕府の御用達商であった福田屋の流れを汲む生糸商で、開港後の横浜における生糸貿易の中心的存在だった。現在の横浜市開港記念会館の場所に相当する。
This picture shows Japanese laborers (karuko) carrying bundles of raw silk while foreign merchants inspect the goods. The Ishikawa-ya firm, descended from the Fukuda family—official suppliers to the shogunate—was one of Yokohama’s leading silk dealers. Its location corresponds to today’s Yokohama Port Opening Memorial Hall site in Hon-chō 5-chome.
要約 / Summary
この展示は、横浜開港初期の街並みと商業活動を描いた『横浜開港見聞誌』を通じて、幕末期の外国人居留地の形成と国際貿易の始まりを視覚的に示している。外国商館街の賑わい、生糸貿易の実態など、横浜が日本近代化の玄関口として発展する過程を記録した重要資料である。

横浜最初の実測図 / First Official Survey Map of Yokohama, 1865
日本語解説
この地図は、横浜で初めて作成された本格的な実測地図であり、1865年(慶応元年)頃にフランス人技師クリペ(Cléret)によって制作された。フランス公使の後援を受け、横浜開港後の都市構造と居留地の配置を精密に記録している。
地図上では、赤色が日本人居住区、黄色が外国人居留地、青色がその中のフランス人地区を示している。また、街路が45度の角度で配置された部分は、もともと田圃や湿地を埋め立てて造成した区域であり、開港初期における都市造成の特徴をよく表している。
English Description
This is the first official survey map of Yokohama, prepared around 1865 by the French engineer Cléret under the patronage of the French Minister in Japan. It provides a detailed record of the urban layout and foreign settlement of Yokohama shortly after the port was opened.
The red area indicates the Japanese quarter, the yellow the foreign settlement, and the blue the French district within the foreign settlement. The streets running at a 45-degree angle mark the reclaimed area where rice fields and swamps were filled in, illustrating the city’s early stage of land development. This map is an essential document for understanding the formation of Yokohama as an international port city.
要約 / Summary
フランス人技師クリペによるこの地図は、開港直後の横浜を詳細に記録した最初期の実測図であり、外国人居留地、日本人町、埋立地の構造を明確に示している。国際貿易港としての横浜の形成過程を理解するための重要な史料である。

咸臨丸と遣米使節団 / The Kanrin-maru and the Japanese Mission to the United States, 1860
日本語解説
万延元年(1860)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、使節団をアメリカに派遣した。この派遣は、鎖国以来初めて日本人が正式に海外へ渡航した出来事であり、近代日本外交の出発点となった。
使節団本体は米海軍の軍艦ポーハタン号に乗船し、随伴した日本の軍艦咸臨丸は、勝海舟を艦長とし、米国士官ブルック大尉の指導のもとで太平洋を横断した。咸臨丸は日本人として初めて太平洋横断を成し遂げた船であり、近代日本の海運史における画期的な航海であった。
使節団はワシントンで条約批准書を交換し、ニューヨークなど各地で盛大な歓迎を受けた。特にニューヨークのメトロポリタン・ホテルでの舞踏会は当時の新聞にも大きく報じられた。
English Description
In 1860, the Tokugawa shogunate sent a delegation to the United States to exchange ratifications of the Treaty of Amity and Commerce between the two nations. This mission marked the first official Japanese delegation to travel abroad after more than two centuries of isolation.
The main delegation sailed aboard the U.S. Navy ship Powhatan, while the Kanrin-maru, commanded by Katsu Kaishū and instructed by U.S. naval officer Captain Brooke, accompanied it across the Pacific. The Kanrin-maru became the first Japanese ship to successfully cross the Pacific Ocean, a symbolic achievement in the history of Japan’s modernization and maritime development.
The delegation was warmly welcomed in the United States, with a grand reception held at the Metropolitan Hotel in New York, signifying Japan’s new entry into the international community.
図版と模型 / Images and Model
ニューヨークの大歓迎会
幕府の遣米使節団はニューヨークのメトロポリタン・ホテルで盛大な歓迎を受けた。
A Ball in New York – The Japanese envoys received a grand welcome at the Metropolitan Hotel, New York.
Yokohama Archives of History.
咸臨丸航海図
咸臨丸は勝海舟を艦長とし、米国士官ブルック大尉の指導のもと太平洋を横断した。幕府使節団の乗るポーハタン号に随伴し、サンフランシスコに到着した。日本人による最初の太平洋横断航海であった。
The Kanrin-maru in Rough Seas – Commanded by Katsu Kaishū under Captain Brooke’s instruction, the ship accompanied the Powhatan and crossed the Pacific to San Francisco, marking Japan’s first trans-Pacific voyage.
咸臨丸模型
幕末期にオランダで建造された蒸気スクリュー軍艦で、近代日本海軍創設期を象徴する艦である。
Model of the Kanrin-maru – A steam screw corvette built in the Netherlands, symbolizing the early modernization of Japan’s navy.
要約 / Summary
本展示は、1860年に行われた日米修好通商条約の批准使節団と、随伴した咸臨丸の太平洋横断を紹介するものである。咸臨丸の航海は、日本人による初の太平洋横断として記録され、幕末期の国際化と海洋技術の発展を象徴する。ニューヨークでの歓迎や、模型展示などを通じて、日本が世界へと踏み出した歴史的瞬間を伝えている。

幕末から明治維新への歩み / From the Late Edo Period to the Meiji Restoration
主要年表 / Timeline of Key Events
| 年号 | 西暦 | 出来事 |
| 寛永16 | 1639 | 幕府、ポルトガル船の来航禁止(鎖国の完成) |
| 文政8 | 1825 | 異国船打払令(無二念打払令、1842年廃止) |
| 嘉永6 | 1853 | ペリー、浦賀に来航し、アメリカの国書を幕府に渡す |
| 安政1 | 1854 | 横浜で日米和親条約(神奈川条約)締結 |
| 安政2 | 1855 | 江戸で大地震(安政大地震) |
| 安政3 | 1856 | アメリカ総領事ハリス、下田に着任 |
| 安政5 | 1858 | 幕府、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと修好通商条約に調印(安政五カ国条約) |
| 安政6 | 1859 | 神奈川(横浜)・長崎・函館が開港 |
| 万延1 | 1860 | 遣米使節派遣、咸臨丸太平洋を横断/水戸浪士ら、井伊大老を暗殺(桜田門外の変) |
| 文久1 | 1861 | 幕府、江戸・大阪などの開港都市延期を要請 |
| 文久2 | 1862 | 薩摩藩士、イギリス人を殺傷(生麦事件) |
| 文久3 | 1863 | イギリス・フランス軍隊、横浜江戸に上陸開戦/長州藩、下関海峡通過の外国船を砲撃(下関事件)/イギリス艦隊、鹿児島を砲撃(薩英戦争) |
| 元治1 | 1864 | 英仏蘭米4カ国連合艦隊、下関を砲撃(下関戦争) |
| 慶応2 | 1866 | 薩長同盟成立/横浜大火で関内の大半を焼失 |
| 慶応3 | 1867 | 将軍徳川慶喜、大政を奉還(大政奉還) |
| 明治1 | 1868 | 戊辰戦争(〜1869) |
要約 / Summary
この年表は、江戸後期から明治初期にかけての日本の開国と国際関係の変遷を示している。1639年の鎖国完成に始まり、1853年のペリー来航を契機に開国が進み、1858年の安政五カ国条約で本格的に国際貿易が開始された。
1860年には咸臨丸が太平洋を横断し、1862〜1864年にかけて外国との衝突事件(生麦事件・下関戦争など)が発生。国内では薩長同盟や大政奉還を経て幕府体制が崩壊し、1868年の明治維新によって新政府が誕生した。
この時期の動きは、日本が鎖国体制を脱して国際社会へと進出し、近代国家への転換を遂げる重要な転機であった。
資料総合レポート
横浜開港資料館展示資料 総合レポート
本レポートは、横浜開港資料館の主要展示資料をもとに、幕末から明治初期にかけての日本の開国・開港・近代化の過程を包括的に整理したものである。展示資料には、開港地図、外交史料、渡航・旅券関連文書などが含まれ、19世紀の国際関係と日本の近代化を視覚的・文書的に示す貴重な史料群である。
Ⅰ. 東アジアの開港と国際貿易の拡大
19世紀半ば、東アジアでは欧米列強の進出により、次々と条約港が開かれた。アヘン戦争(1840–1842)後の南京条約により中国の広州・上海などが開港し、1858年の天津条約では日本・朝鮮を含むアジア各地に通商権が拡大した。日本も1859年に横浜・長崎・函館を開港し、外国人居留地が形成された。
展示地図『19世紀中頃の開市・開港場』では、条約による開港の広がりを色分けで示し、横浜がアジア貿易の結節点として発展していく様子を視覚的に確認できる。
Ⅱ. 日米修好通商条約と港の開設
1854年のペリー来航後、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは幕府との交渉を重ね、1858年に日米修好通商条約を締結した。これにより日本は正式に五港(横浜・長崎・函館・新潟・神戸)を開港し、諸外国との通商が始まった。
展示『The Opening of the Port』では、ハリスの肖像、下田玉泉寺の領事館、江戸城での謁見行列図などが示され、幕末日本が国際外交の舞台に立った瞬間を伝えている。
Ⅲ. 横浜の都市形成と外国人居留地
開港直後の横浜は、外国人居留地と日本人町が明確に区分された都市構造を持っていた。フランス人技師クリペによる『横浜実測図(1865年)』では、赤色が日本人区、黄色が外国人居留地、青色がフランス人区を示し、埋立造成によって形成された都市計画が視覚的に理解できる。
また、錦絵『横浜開港見聞誌』には、外国商館街や生糸取引の情景が描かれており、港町としての横浜の活気と国際化を象徴する。
Ⅳ. 咸臨丸と遣米使節団の航海(1860年)
万延元年(1860)幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節団を派遣した。米軍艦ポーハタン号とともに、日本の咸臨丸が勝海舟の指揮のもとで太平洋を横断し、これが日本人による初の外洋横断航海となった。
展示では、ニューヨークでの盛大な歓迎会図や咸臨丸模型が紹介され、幕末日本の外交的躍進と技術的挑戦を象徴している。
Ⅴ. 明治期の旅券制度と国際交流
明治初期、政府は海外渡航を厳しく制限しており、日本人が外国に行くには外務省発行の旅券が必要だった。同時に、外国人が国内を旅行する際には「内地旅行免状」が必要であり、明治24年(1891)の免状が現存する。
1885年設立の日本郵船会社は、外国人旅客向けに『郵船会社の旅客・荷主案内』(1888年刊)を発行し、近代的観光・貿易体制を整えた。これにより横浜は国際交通の要衝となった。
Ⅵ. 幕末から明治への転換期:年表的整理
年表によれば、1639年の鎖国完成から、1853年ペリー来航、1858年安政五カ国条約、1860年遣米使節、1868年明治維新に至るまで、日本はわずか数十年で封建体制から近代国家へと変貌した。この過程で横浜は常に国際交流の中心として機能し、経済・文化・交通の拠点となった。
結論 / Conclusion
横浜開港資料館の展示群は、日本がいかにして外圧を契機に自らの近代化を進め、国際社会の一員となったかを示す重要な証拠である。外交、都市計画、海運、旅券制度のすべてにおいて、横浜は日本近代史の象徴的舞台であり、その史料群は今日の郵便史・交通史研究にも極めて貴重な基礎資料を提供している。
追加
横浜開港資料館展示および1864年郵便史研究報告
本報告書は、横浜開港資料館の展示資料を基礎に、日本の開港・通商・郵便制度の発展を総合的に解説し、特に1864年における横浜発欧州宛カバーを中心とするスエズ経由航路の郵便史的分析を加えたものである。
Ⅰ. 1864年 横浜発欧州宛郵便の実態
1864年当時、日本は開港からわずか5年を経た段階であり、正式な官設郵便制度は未整備であった。この時期の欧州宛郵便は、香港・スエズ・マルセイユ経由で運ばれる「船便(Paquebot Mail)」として扱われた。
使用船会社は主に英国のPeninsular & Oriental Steam Navigation Company(P&O社)で、香港からスエズ、アレクサンドリアを経てフランス・マルセイユまでの連絡航路を運航していた。
記録上、1864年前後の欧州宛便には “S.S. Candia”, “S.S. Nubia”, “S.S. Malta” などの船舶が確認され、これらは香港発スエズ経由で毎月運行していた。
Ⅱ. 郵便印と料金体系
横浜からの郵便は香港局で英国郵便の管理下に入り、B62消印(香港由来)やフランス郵便の海上印 “SUEZ PAQ. FR. No.3” が併用される事例がある。
料金は1/–6d(英国郵便経由)または1/–10d(仏国経由)が一般的であり、いずれも前納制が適用された。日本国内では郵便料金制度が存在しなかったため、外国郵便は横浜商館や領事館を通じて引き渡された。
Ⅲ. 船舶輸送とスエズ地峡の通過
当時の郵便輸送は、香港–シンガポール–スエズ地峡–アレクサンドリア–マルセイユの連続航路によって行われた。スエズ地峡では1859年に鉄道が開通し、従来のラクダ輸送から鉄道輸送への転換期にあった。1864年の段階で郵便輸送日数は約45日と推定される。
この航路は後のスエズ運河(1869年開通)によって大幅に効率化され、日本から欧州への郵便日数が約30日に短縮される基盤となった。
Ⅳ. 郵便史的意義
1864年のカバーは、日本における国際郵便制度導入の黎明期を示す極めて重要な資料である。正式な郵便行政開始前に、外国郵便網を利用して民間通信が行われていたことを証明する。
また、横浜がアジア・ヨーロッパ間の郵便接続拠点として機能していたことを明確に示しており、後の1871年の官設郵便制度創設へと直接つながる。
Ⅴ. 1864年前後の代表的船舶記録
| 月 | 船名 | 出港地 / 経由 | 到着地 |
| 1864.3 | S.S. Candia | 香港 – スエズ | マルセイユ |
| 1864.6 | S.S. Nubia | 香港 – スエズ | マルセイユ |
| 1864.9 | S.S. Malta | 香港 – スエズ | マルセイユ |
Ⅵ. 今後の研究課題
・Lloyd’s List(1864年全号)および Hong Kong Daily Press の航海記録により、出帆・入港日を特定する。
・香港郵便局消印(B62, C1)との照合により、各航便の便船を特定する。
・Archives nationales(パリ)所蔵『Correspondance Consulaire – Yokohama』を確認し、フランス郵便による横浜便の実例を追加調査する。
・横浜開港資料館『開港期郵便資料集』第1巻収録のカバー群と比較研究を行う。
Ⅶ. 結論
1864年の横浜発欧州宛カバーは、日本における国際郵便の萌芽期を象徴する史料である。本研究は、開港期の船舶航路・郵便制度・商館活動の連関を明らかにし、近代日本の通信史および国際交流史の一端を照らすものである。

