追加徳山切手展作品作成

SHIP COVER

追加展示要請あり。アラカルト的に作成していた、日本戦後のパックボーカバー集めてトップリーフ作成。

トップリーフ

パックボーの説明とどこを見るかをトップページ書き込み、リーフ番号で日本の南から北に各港展示した。

いろいろな種類のパックボーカバー展示したが、その変化が理解できるか? 展示はなるべく変化にとんだカバーを並べたが、見る方はその苦労がないのでサラーと見てしまう。このギャップ埋めるのが展示技術と思うが。

南の港から作成開始まず那覇中央から

那覇中央局、パックボー印まだ米国に租借時代。米国人作成。日本人に依頼して作成、おとひめ丸懐かしい船名です。多数の記念印が楽しい、観光旅行団と言うツアーで沖縄旅行なかなか沖縄を訪れるのが難しい時代のはがき。

上はパックボーカバー巨匠Lundの作品。70.7.3 と70.9.12 NAHA局消印。なぜ?

Lund のヒューストンの住所は後から上張りされている。7月3日のNAHA消印後、その頃住んでたNJニュージャジーに送付された。しかし住所変更リターンアドレスないので、幸運にも那覇局に返送された。航空便が消されているので、船便でへ米国へ往復2ケ月再び消印。パックボーの巨匠は転居したので、すでに郵便依頼局に転居を知らせた。那覇局にもラベル送付したので新しい住所ヒューストンに配達された。米国切手8Cの上に紫色消印あり。注意深く見るとFar East Lineが見える。

と言うことは、最初から米国6cと琉球切手27cは貼付け済み。右側米国切手投函船SS.California Bear船上でFar East Line消し。その後那覇局受取1970.7.3 消印古い宛先に送付。那覇局戻し、右米国切手に1970.9.12消印。ヒューストンの新しい住所に配達。この推測で疑問は解決。まったくの自己満足の解説?

このSS.California Bearは面白い船で、コンテナ船輸送開始前後に出現したバージ船である。

船の上にはしけ積載。港に入ればいつでもはしけを降し迅速な荷役可能と言うユニークなアイデアで売り出したが、他社追従することなく普及せず1978年経営破綻した。

Golden Bear, Pacific Bear, Japan Bear, China Bear,Thomas E. Cuff e等の船が1971-1973年建造された。

下のカバーもオークションでよく見かける。Shinposan-Maru(大阪商船三井船舶)投函 1972.3.20消印カバー。

櫛型印RYUKYU最終期のカバー。琉球政府は1972年5月15日日本に復帰する。日本船差出20円切手貼り、内国封書料金 (1972.4.1-1976.1.24) 適正料金である。

青年の船、明治100年記念青年の船船内局特印と欧文印押しカバー。マニラ局留めとしてある。幸運にも那覇局のパックボー取扱い印が押されている。日本から郵便依頼した場合、航海終了後日本から配達したが、このカバーは距離的に近い寄港地那覇からマニラに送られている。パックボーコレクターにはまさに幸運のカバーである。まだ沖縄返還前の貴重なカバーである。

下のカバーは同じパックボー証示印だが、沖縄返還後米国船から投函、那覇の黒活印消しである。これはこれで良いカバー、返還後すぐにこのようなカバー作成のアイデアは浮かばなかった。米国人コレクターありがとうである。

鹿児島パックボーは少ない。この他にクイーンエリザベス寄港パックボーカバーは多数ある。

九州の拠点港博多、多数パックボーカバーは存在する。1956年この櫛型印多数あり、この時代の博多の繁栄が偲ばれる。最近は中国からの客船多数寄港だが、パックボーカバーは余り見ない。下はバイキング船切手が気入り購入た。

大牟田消印珍しい港だが、水先区指定もあり入港船はぽっぼっある。昔の米国友人Martin作成。

ペルーカヤオからジンクコンセントレイト積み、次の港は三池、秋田の書込みあり。船長のサインもありなかなか良いカバーである。下の神田は、日産自動車の積み出し港。スゥェーデン船から投函自動車船か?

韓国のコレクター元三光汽船機関長作成タンカーから投函大分カバー。貴重な上陸時間、彼は意味理解できないパックボーカバーについて郵便局員を説得して多数の日本港のパックボーカバー作成している。日本では外国便、外国交換局のみでなくどの局でも受け付けているので、UPUルール理解していない一般局ではしばしば受取拒否している。

下は門司局。門司港から遠い門司局も外国郵便交換局なので多数ある。船舶代理店員持ち込みと思われる。

門司港、外国郵便交換局ではないが、多数存在する。1970年代、門司一号岸壁から下関唐戸渡船の手前、船員生協の横の小さな局はよく利用したが、あれが門司港局か?現在の地図では大幅再開発され現地に行かないとちょっと不明。船から投函するのが容易な場所にあったので多数投函されたのだろう。

下のカバーは既定の英国切手貼られているが、別納の10g 120円の印が貴重である。船舶代理店員が英国船から多数のパックボー郵便物受取、郵便局員がパックボー料金支払い済み理解できず日本料金で支払った。多数あったので料金別納印押し日本切手は貼らなかった。この印が封筒に残っているのは珍しい。

下関局、昔は外国郵便交換局。門司から受け取ったパックボーも処理した時代があった。戦後は少ない。2通とも韓国人Leeさんの努力で入手出来た。下は関釜フェリー韓国籍のフェリー釜関1983年カバー。Leeさんの助言を得て自分で作成成功した。懐かしい! また作成してみたいがLCCの発達で、なかなか関釜フェリー乗船の機会がない。

地元、宇部と防府。小さな港でなかなかない。宛先のスゥーデン人 Bert Stener作成パックボーメール多数ある。

熱心にパックボーカバー作成の様である。防府は中の関港にマツダの自動車運搬船入港。印は手書きNavire。

りべリヤ船投函、切手も同国。パナマ船の前はりべリヤ船籍が多かった。岩国パックボー消印も珍しい。

タンカー入港多数だが、上陸不可能、タンカー乗組員はパックボー便は余り作成しなかった。岩国Paquebot IWAKUNIの英文地名印を追加した押印は珍しい。

広島1万トン岸壁があり、入港船はけっこうあり。マツダの自動車積み出し関係船も多数。

広島港と言っても港に最も近い局は宇品局です。手書きNavire印。因島局、昔日立因島工場があり、修理船、新造船多数。Leeさんの努力で作成。今では珍しい局である。

水島、加古川鉄鋼関係、新しい港である。開港も1970年代。

大阪多数あり、かなかな珍しいカバー見つからず。外国郵便交換局適正にパックボー扱い処理されている。

2フレーム目、神戸から北へ

3フレームまで追加とも思うが時間切れ、材料あるが中止。

わがホームポート神戸。昔からの外国郵便交換局多数の消印あります。戦後からの展示なので1950年から米国Maritime Postmark Societyメンバー多数作成されています。戦後1950年代は米国国籍船アジアの海を制覇、優秀船多数です。1969年、私が船乗り開始時代もまだ米国、国籍船が中心でした。米国の国章、鷲のマークのファンネル、プレジデントラインが水平線の先から接近。あっという間に、追い越される経験を何度もしました。日本戦後建造ボロ船12ノット、相手は戦勝国24ノットの高速船レヘルの差は大きくて。まったく勝負になりません。

American President Lines SS.PRES McKINLEYカバー。あの時代の船だと買いました。

下は国籍フィリッピン、マニラクラーク基地宛て。船名MS. NONA NATI。戦後補償として日本で建造フィリッピンに無償引き渡した船からです。過去の忘れつつある時代の船からです。

神戸のパックボー扱い評示印ほぼ同じ枠入り印です。今もコンテナ船で健在マースクライン、デンマーク国籍からのカバー。下はステイツライト呼ばれた米国籍からの投函カバーです。1957年以降のカバーは多数ありますが、変化なし展示は中止です。

Leeさんの作品。タンカーから堺、下津からのカバー。2通とも同じ船から投函。船名印の違いがある。三光汽船の運航タンカーと思われます。シンガポール船籍、乗組員韓国なので韓国切手使用。UPUルールでもこのような切手の使用は認められています。

名古屋港、2008年より13年働いた港です。昭和28年のカバー。MV.SWORD KNOTこの船はアジア港で多数パクボーメール投函しています。名古屋港黒活印、まだ欧文印支給はない時代。枠付きPAQUEBOT印しっかり押されています。皇太子殿下御外遊記念の特印も面白い、郵便局がサービスで押印したのか?

下は巨匠ルンド作成。リべりヤ切手貼りだが、郵便局員その頃珍しいリベリア切手、無効と思ったか日本切手90円追加貼り、多分船舶代理店員支払ったと思われる第二地帯航空料金適正。航空郵便の印が名古屋港局で押されている。

またNJの住所送付されたが転居のため、テキサス州ガルベストンへとペンと書き記入あり転送された。鉛筆のBy Seaも転送時船便で送付の指示と思われる。

名古屋の外国郵便交換局印。本局は港から遠いのでパックボー印なし。手書きでPaqubot Mail記載。その後名古屋港局でPaquebot印押したか?

下はインドネシア船から投函、珍しいインドネシア切手貼り。これも郵便局員がパックボー切手の価値を認めず名古屋欧文消しだが、名古屋港埠頭局の別納印が付いている。支払いは船舶代理店員が立て替え払い、後日船主に請求したと思える。1-2通なら追加日本切手貼り処理だが、手紙大量にあったと思われる。これも局が航空便の印を押して転送している。

名古屋港埠頭英文MINATO FUTO表記。1982年りべりヤ籍船問題なくパックボー扱い処理されている。

名古屋港ゲート出てすぐ右側の名古屋港湾合同庁舎別館に埠頭分室があった。税関の隣。1966年4月1日設置、2007年3月30日閉鎖。

名古屋港郵便局は現在も稼働中。港区栄2-1-7ゲートから約500メートル右側にある。

半田局、14年余り居住。港の歴史は古く、名古屋港開港前から機能していた。現在はその後の増設、水深の確保が難しく小規模港となっている。昔のパックボー収集友達Martinしっかり1978-1980年に作成している。

四日市、川崎共古い港だがなぜかパックボーカバー入手数少ない。残念もう少しの努力が必要である。

清水港、長年同一のPaquebot使用している。局を訪れパックボー印の取り扱い説明を受けた事がある。

パックボー印は雑印扱いで、日付印の様に使用開始、終了帳簿に記載必要なし。速達書留印と同じように消耗品で簡単に交換できる。と言いながらパックボー印長期に同じ印影を使用している。注文時前回の印影と同じ大きさ字体で作成しているようである。南アメリカ、パナマ切手貼り、追加日本料金が切手メータースタンプで支払われている。

清水初期のパックボー印巨匠Lund作成。米国切手不足10/50追加料金メータースタンプ支払い。

下は南アケープタウン船籍の船から投函。元の南アフリカ切手上にメータースタンプ貼り付け英国向け航空便の利用料金支払ってる。第三地帯一番高い料金封書170円支払っている。

横浜、外国郵便交換局。戦前から長い歴史のあるパックボー印使用。欧文印の変化の展示。

横浜港は大桟橋に近く利用が多くカバーも多数ある。この局も外国郵便交換局である。パックボーもスムーズに受け付けられ宛先国に送付されている。

東京、広い東京パックボー印は以外に少ない。芝浦埠頭、晴海埠頭、大井コンテナ埠頭等接岸経験あるが東京パックボーはどの局で処理したか不明。下のMS. NIPPONパックボーゴム印使用している。

千葉は岸壁からまっすく゛500メートルに郵便局あり。印影は前の東京のパックボー印と同じ。千葉の欧文印のみ押して東京の外国郵便交換局に転送処理したと思える。

下のカバーはブルネイ国籍船から投函。珍しい国籍の船このカバー1通のみしか所有していない。アジアの富裕国。ボルネオ島の北西側にマレーシア領に囲まれて位置する産油国である。タンカーでセリア港積みに沖錨で停泊した。また旅行でコタキタバルからフェリーでラブアン島経由このカバー登録の長くて読みの難しい港に到着した。1泊してその後長距離バスでミリ、クチンと巡った。

八戸、室蘭ラスト2通。少ない港だがしっかりパックボー印押されている。北海道もう少し探したい。