菊切手3銭 釜山 船函印 カバー調査

SHIP COVER

入手後データー調べず放置カバー

下記カバー調査開始です。

釜山の船函印? データーは?

続き 少し暇が出来たので調査開始

釜山の消印ここ一つ不鮮明。年号読める? 山口県大島郡沖家室島到着印も不鮮明? 8月16日送付日

茶印の船函、釜山の消印と同じ色なので釜山のものと思える。封筒裏面の仁川港のものではない様?

毛筆の手紙読めず。何か投函地の手がかり判明すればご教授お願いします。

 

菊2銭発行は明治

日本韓国郵便開始は

船函の使用開始と終了は?

今日はここまでまた資料探し

菊切手3銭発行は1899(明治32年)4.1.発行

韓国での日本郵便は釜山(1876年) 仁川(1883年) 元山(1880年)で使用開始。丸一型日付印朝鮮便号なし(1887年)明治21年12月使用開始

韓国表示は1897(明治30年10.12)より使用開始(国名を大韓帝国と改めたため)

その後1900-1901(明治33年1.1.から明治34年3.31)朝鮮加刷使用。明治38年8.1.日韓通信合同。

鳴海発行の郵便消印百科事典は2007年4500円高いなーと思って買ったが消印関係は過去の研究からピックアップよくまとめられている。今となれば便利に使用している。

釜山の船函印

釜山の地名入りSHIP印 1892.8.28.他10局あるらしい。1886-1891年使用された。

1892(明治25年)UPUウイーン会議にてPAQUEBOT(船舶から投函されて郵便物に証示印)として使用開始した。国内便には船便と記載されていたが明治20年頃から船函として使用している。

消印を読み取るため、コピー拡大繰り返したが、無駄な努力。アイフォンで写真撮り明るさ調整拡大。

なんとか明治33年8月18日イ便読み取れる。32年かも? 韓国表示から朝鮮加刷前後と思える。

 

次は釜山の船函のデーター探し

古い本の中からあれこれ探すが、同じ印は見つからず。

右上、仁川印可能性あり?

2025年新年、新発見

昨年秋から月30$の有料Cat GTP導入。1日1項目調査開始。上記江口本から1902年仁川舩函印再発見。

消印部分写真加工読みやすくする。ありがとうChat GTP結果は下記画像です。

丗三年と読めます。と言うことは明治33年(1900年)です。裏面から8月16日仁川投函。箱型印朱色舩函押し、8月18日切手に釜山消印。日本向け船に積み替え山口県大島郡沖家室島配達された。到着印不鮮明、簡局と翠という字がわずかに見えます。最終明治丗五年(1902年)、周防平野局と判明。調査継続。

仁川郵便局調べる

仁川(当時の濟物浦)は、日本の朝鮮進出において重要な拠点であり、日本の郵便制度が早い時期に導入された。

仁川日本郵便局の開設(1883年11月)

  • 1883年、仁川が開港すると日本は同年11月に「仁川日本郵便局」を設置
  • これは釜山(1876年)、元山(1880年)に次ぐ、朝鮮半島で3番目の日本郵便局であった。
  • 日本の郵便切手が使用され、日本国内と同じ郵便料金で郵便物を送ることが可能となった。
  • 仁川からの国際郵便
  • 仁川は東アジアの貿易の要所であったため、日本郵便局からの国際郵便は以下のようなルートを取っていた。
  • 仁川 → 釜山 → 長崎 → 日本国内(日本向けの郵便)
  • 仁川 → 清国(天津・上海)(清国との貿易・外交郵便)
  • 仁川 → 香港 → 欧米(イギリス・フランスなどへの国際郵便)

仁川と戦争(1894年の日清戦争・1904年の日露戦争)

仁川は、19世紀末から20世紀初頭の東アジアの戦争において重要な軍事拠点 であった。

① 1894年:日清戦争

  • 仁川は日清戦争の際、日本軍の上陸地点となり、日本が朝鮮半島への影響力を強める契機 となった。
  • 戦後、日本の影響がさらに強まり、日本の郵便制度の普及が進んだ。

② 1904年:日露戦争

  • 仁川港は**日露戦争の最初の戦闘(仁川沖海戦)**が行われた場所であり、日本が海上優勢を確保。
  • これにより、日本は朝鮮半島を軍事的に支配し、郵便制度の統一を推進した。

仁川の郵便関連史料と消印

仁川に関連する日本郵便の郵便史料には、以下のようなものが存在する。

  • 1883年~1905年: 日本の切手を使用した郵便物(仁川発の消印が確認できる)
  • 1905年~1910年: 韓国併合前の過渡期の郵便物
  • 1910年~1945年: 朝鮮総督府郵便(完全に日本の郵便制度に統一)

船のルート調査

さあここまで調査、1902年仁川寄港船投函、鉄道まだ開通していないので船の輸送ルート調べる。

仁川(インチョン)、釜山(プサン)、長崎を結ぶ航路には、歴史的に多くの船舶が就航していました。特に、19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本郵船や大阪商船といった日本の海運会社が、これらの港を結ぶ定期航路を運航していました。

例えば、1902年の日本郵船の神戸発北清線では、玄海丸伊勢丸 といった船舶が、神戸から門司、長崎、釜山、仁川、芝罘、天津、牛荘といった港を経由する航路を運航していました。

情報の整理

1902年差出人裏書から8月16日仁川港投函。パックボー印と同じ舩函印を仁川日本局で押し仁川局消印は押さず釜山行きの船に積み込まれた。釜山日本局に陸揚げ菊切手に8月18日。消印、日本向け船に積替え門司または下関にて陸揚げ。

山口県大島郡に配達。2隻の船名調査。1隻でも良いが。ネット検索で資料探し開始。